6月27日(土)は、CIEE新潟同友会総会に招かれ、長岡でCLILの話をしました。新潟では、長い歴史のある英語研究会であり、新潟県の英語教育を中心的に担っている人の会です。このような会での話はたいへん光栄で、かつ、参会者の方を実りある意見交換をしました。
私が話す前に、研究発表として二人の先生が話してくれました。中高一貫校の6年の指導と、インタビュー活動におけるルーブリックの活用という高校での実践の話でした。両方とも、単なる研究発表ではなく、本音も聞けた興味深い話でした。お互いが気心のしれた集まりということもあったのでしょう。率直な研究と指導を現場の実践が聞けたことは、私の研究の興味にぴったりでした。可能であれば一度学校を訪問させていただきたいと思いました。
会長の廣田先生と事務局の森先生の人柄だと思いますが、暖かい雰囲気で実に心地よく話すことができました。この会に呼ばれたのは、顧問をされている阿部先生(さん)の誘いでした。阿部先生は、大学時代の先輩で、もともとは物理学を学び、新潟では理科の先生をして、英語に転じた実に多才な人です。何でもできる先輩で行動力のある人です。廣田先生も森先生も、その阿部先生を通じて、今回知り合いました。
CLILについては、その場にいた先生にはまだ未知の「学び」のようでしたが、意外にスーッと理解してもらったのではないかと勝手に思っています。演題は「CLILがつなぐコミュニケーションの輪」としました。いままであちらこちらで話した内容をいくつか合わせて話しました。目的は、CLILに興味を持ってもらいたかったからです。使ったスライドはこのページからダウンロードできるようにしておきます。興味のある方は見てください。
当日はちょっとうまく説明ができませんでしたが、「CLILがつなぐコミュニケーションの輪」の意味は、下の図です。CLILでは、cultureを大切にしています。私は、CLILが日本に定着するかどうかは、図に示したIntercultural awareness(文化的な気づき)の理解のしかたにあると考えています。多様な学びが、これまでの伝統的な学びをうまくつなぐカギのヒントがCLILにあるのではないかと思うわけです。
このあたりは、私もうまく説明できないし、その実践も積み重ねているわけではないので、明確に言えませんでした。発表の冒頭で、3年前に参加したオランダ・ユトレヒトで行われた ヨーロッパのCLILの学会で偶然出会った世界で最も小規模な世界遺産、the Rietveld Schröder Houseは、私に「CLILとは何か」を教えてくれたような気がします。
CLILはそれほど奇抜な教育ではありませんが、やはりいままでの英語教育とは違います。また、それぞれの科目の教育とも違います。特に型はありません。一見すると何も起こっていないようにも見えますが、よく見ると「え?」と思うことがあります。それが、the Rietveld Schröder Houseによく似ているように思うのです。
この家は、100年近く前に作られた家です。当時は斬新なもので、いまでもある面では斬新なものです。しかし、一見するとごく普通の家です。CLILとはそのような感じの教育です。それが世界遺産として後世にも残す必要があると判断された発想が、私は重要だと思っています。
しかし、この機会に多くの先生方に興味を持っていただき、いずれにしても感謝しています。森先生からも多くの示唆を受けました。また、参会者の先生方からも多くのヒントを得られました。一つ印象に残ったのは、廣田先生の、「CLILは中学校の実践の中でもけっこうやっていることですね」という感想です。私も実はそう感じています。中学校の先生はかなり工夫をして授業をしています。そのような授業をかなり見ました。また、高校でもそうです。CLIL的な要素はけっこう日々の実践の中でも多くの教師がやっていることなのです。杉田先生が、2年後に全国英語教育学会が新潟で開かれると教えてくれました。ぜひCLILを取り上げてください。CLIL NIIGATA をぜひお願いします。
私は、ヨーロッパのCLILを日本に取り入れようとは考えていません。CLILという教育を通して、英語の学びあるいは英語による学びを少し別の角度から考えてみませんか?ということです。関心を持ってもらえれば幸いです。
懇親会まで開いていただき、まことに感謝です。阿部さん、よい出会いをありがとうございました。またの機会を楽しみにしています。写真を撮るのを忘れてしまい、画像がなく申し訳ありません。では、また。
休止中
次のウェブを参照
CLIL SAITAMA(旧名称)
CLILは、次第に注目を集めています。本サイトは、笹島茂がかかわるCLILの実践やつぶやきを集めたものです。参考にしてください。
CLILアンケート調査
2015年6月29日月曜日
2015年6月15日月曜日
東洋英和CLIL ReN第2回会合
東洋英和CLIL ReNの集まりの第2回が6月13日にありました。
武藤克彦先生の「イングリッシュキャンプにおける参加児童のCan-Do評価」という話をもとに、いろいろと意見交換しました。参加者は、大学関係者が多かったのですが、小学校や小学校英語教育にも詳しい人が多かったので、活発なやりとりが行われました。
私自身も小学校の英語活動や子供の英語力や英語コミュニケーション能力や国際理解を育成する活動には興味があり、武藤先生の話はとても興味深い内容でした。
ある団体が主催するイングリッシュキャンプで国際理解教育をもとに、学生を中心とするリーダーととともに英語で様々な活動をするという内容です。英語学習を主たる目的とするのではなく、「何かをしながら人と関わりながら学ぶ」という社会文化理論を背景とする視点で、武藤先生は子どもを見ているようです。Can-Do評価を利用しながら、子どもがイングリッシュキャンプで何をどう学ぶのかということを探索することが目的です。
現在の研究は、この段階からさらに進化し、多様な分析を試みているようです。研究成果が楽しみです。このイングリッシュキャンプ自体はCLILではありませんが、話し合いの中で、やはりCLILの話になりました。リーダー(チューター)はすべて学生で、英語を母語とする訳ではありません。英語はそこでは共通語で、それぞれの学生の出身国のことを話題として学びます。多様な内容や文化を子どもは知ります。もちろんその中で英語に触れるわけです。イマージョンということです。
このような活動は、CLILとして見ることが可能です。しかし、CLILは宗教でもある特定の指導法ではないので、この活動をCLILと言うか言わないかはあまり問題ではないと思います。率直な感想として、子どもは面白いと感じたのではないでしょうか?相当に様々なことを考え、学び、コミュニケーションし、文化的体験をしたはずです。これはCLILの「4つのC」にも合致します。その意味で、CLILと呼べば呼べるでしょう。
私は、何がCLILか、何がCLILでないかにはあまり興味がありません。率直に何か「学び」が起きている、あるいは、それが言語学習とかかわっている、ということに興味があります。それをCBI、CBLT、イマーション、バイリンガルなどと呼ばれ、区別されるわけですが、それはまた別の話と考えます。
人の興味は様々で、多様な「学び感」があります。年齢や経験を積み重ねれば積み重ねるほど、人は自分に自信を持ちます。確固としたビリーフを持ちます。教師であれば一つの指導法がかたまってきます。生徒であれば、学習スタイルが決まります。これはその人のアイデンティティーであり、変わる必要もありませんし、そう簡単に変わらないものです。
その意味で、武藤先生の紹介したイングリッシュキャンプはおもしろい題材でした。ある方向性は決まっているのですが、実際に参加した子どもが何を一番学んだかはおそらくわからないでしょう。しかし、たぶん子ども一人ひとりには大きな学びを与えたはずです。これを検証することはきっと意味があることです。その意味で興味があります。
CLIL的には、それぞれの子どもが主体的に何かできることが大切なのかな、と思いました。つまり、言語を英語ということに規制することに対して、主催者がどう考えているかです。英語という言語に限定することにより、不自然になります。内容を自然と単純化します。これは自然ですが、それと併せて、母語を使ってはいけないとするとちょっと意味合いが変わります。あるいは、多言語状況を演出することもそうです。さらには、文化をどう扱うかです。
このような英語イマーションプログラムはあちらこちらで行われ、成果を出しています。きっと子どもにはよいことでしょう。これをCLILと呼ぶか呼ばないかはそれほど大きな問題ではありませんが、教師がそれをどう考えているかは一つ一つの活動に影響を与えるでしょう。私はその点にとても興味を感じます。
武藤先生ありがとうございました。このブログは私の記録としてのメモです。思い違いや文章の不備はご容赦ください。
第3回は、7月18日(土)3時〜5時です。仲谷先生、油木田先生、大和先生が話題提供してくれます。
武藤克彦先生の「イングリッシュキャンプにおける参加児童のCan-Do評価」という話をもとに、いろいろと意見交換しました。参加者は、大学関係者が多かったのですが、小学校や小学校英語教育にも詳しい人が多かったので、活発なやりとりが行われました。
私自身も小学校の英語活動や子供の英語力や英語コミュニケーション能力や国際理解を育成する活動には興味があり、武藤先生の話はとても興味深い内容でした。
ある団体が主催するイングリッシュキャンプで国際理解教育をもとに、学生を中心とするリーダーととともに英語で様々な活動をするという内容です。英語学習を主たる目的とするのではなく、「何かをしながら人と関わりながら学ぶ」という社会文化理論を背景とする視点で、武藤先生は子どもを見ているようです。Can-Do評価を利用しながら、子どもがイングリッシュキャンプで何をどう学ぶのかということを探索することが目的です。
現在の研究は、この段階からさらに進化し、多様な分析を試みているようです。研究成果が楽しみです。このイングリッシュキャンプ自体はCLILではありませんが、話し合いの中で、やはりCLILの話になりました。リーダー(チューター)はすべて学生で、英語を母語とする訳ではありません。英語はそこでは共通語で、それぞれの学生の出身国のことを話題として学びます。多様な内容や文化を子どもは知ります。もちろんその中で英語に触れるわけです。イマージョンということです。
このような活動は、CLILとして見ることが可能です。しかし、CLILは宗教でもある特定の指導法ではないので、この活動をCLILと言うか言わないかはあまり問題ではないと思います。率直な感想として、子どもは面白いと感じたのではないでしょうか?相当に様々なことを考え、学び、コミュニケーションし、文化的体験をしたはずです。これはCLILの「4つのC」にも合致します。その意味で、CLILと呼べば呼べるでしょう。
私は、何がCLILか、何がCLILでないかにはあまり興味がありません。率直に何か「学び」が起きている、あるいは、それが言語学習とかかわっている、ということに興味があります。それをCBI、CBLT、イマーション、バイリンガルなどと呼ばれ、区別されるわけですが、それはまた別の話と考えます。
人の興味は様々で、多様な「学び感」があります。年齢や経験を積み重ねれば積み重ねるほど、人は自分に自信を持ちます。確固としたビリーフを持ちます。教師であれば一つの指導法がかたまってきます。生徒であれば、学習スタイルが決まります。これはその人のアイデンティティーであり、変わる必要もありませんし、そう簡単に変わらないものです。
その意味で、武藤先生の紹介したイングリッシュキャンプはおもしろい題材でした。ある方向性は決まっているのですが、実際に参加した子どもが何を一番学んだかはおそらくわからないでしょう。しかし、たぶん子ども一人ひとりには大きな学びを与えたはずです。これを検証することはきっと意味があることです。その意味で興味があります。
CLIL的には、それぞれの子どもが主体的に何かできることが大切なのかな、と思いました。つまり、言語を英語ということに規制することに対して、主催者がどう考えているかです。英語という言語に限定することにより、不自然になります。内容を自然と単純化します。これは自然ですが、それと併せて、母語を使ってはいけないとするとちょっと意味合いが変わります。あるいは、多言語状況を演出することもそうです。さらには、文化をどう扱うかです。
このような英語イマーションプログラムはあちらこちらで行われ、成果を出しています。きっと子どもにはよいことでしょう。これをCLILと呼ぶか呼ばないかはそれほど大きな問題ではありませんが、教師がそれをどう考えているかは一つ一つの活動に影響を与えるでしょう。私はその点にとても興味を感じます。
武藤先生ありがとうございました。このブログは私の記録としてのメモです。思い違いや文章の不備はご容赦ください。
第3回は、7月18日(土)3時〜5時です。仲谷先生、油木田先生、大和先生が話題提供してくれます。
2015年5月17日日曜日
東洋英和CLIL ReNの発足について
東洋英和女学院大学に赴任して2月弱たちました。
CLILだけの研究ではありませんが、東洋英和という学校法人で働く人を中心に、「東洋英和英語教育(CLIL)研究交流会」(Toyo Eiwa English Teaching and CLIL Pedagogy Research Network)(略称「東洋英和CLIL ReN」)という集まりを、5月16日(土)に六本木の大学院校舎で行いました。
私が、私のCLILの理解を話し、集まった人たちで、それぞれの授業のことや、学生や生徒のことを話しました。たいへん楽しい会でした。まとまりのある話しではないので、ここでは、その話しの中で、私が思ったことをここで書いておきたいと思います。
一つは、英語授業の目的です。日本ではどうしても「受験」あるいは「テストでよい成績をとる」ということに注目されてしまいます。これは、日本だけではなく、当然と言えば当然で、おそらく多くの英語学習に要求されていることです。しかし、少し違うのが、英語を実際に使うというニーズに対する意識だと思います。英語をコミュニケーションとして使うという活動が、受験などのテストのスコアとつながらない、という思い込みです。あるいは、効率が悪い、という思い込みです。
別の観点から言うと、語彙や文法などの知識の詰め込みという学習から脱却できないことがあります。単語や熟語をたくさん覚えなければならない、あるいは、英語は効率よく読めなければいけない。そのためには、人とコミュニケーションをして英語を使うことより、個人学習を黙々と続けることのほうが効率がよい。そこで、教師は、授業で説明に終始し多くの言語材料を提供し、そのテストをする。生徒(学生)は、それを覚え、対応する。この悪循環(?)(vicious circle or cycle) からなかなか抜けられません。
そこで、CLILです。CLILと言うか言わないかは、あまり問題ではなく、上記のような学習を多少変えないと未来はないような気がします。CLILの基本は、受験やテストには適していると考えています。つまり、内容と言語の両方に焦点を当てているからです。英語をただ使って無駄にコミュニケーション活動をしているという誤解は解消できるはずです。英語だけ使っていると母語の日本語による思考力が育たないという誤解も解消できるはずです。
現在の学習は、ICTの発達で、知識詰め込みから、思考、創造、リテラシーなど、発想や情報の利用などのほうに移行しています。学校教育もその方向に変わりつつありますが、その評価測定方法が追いつきません。この点は私もよくわかりませんが、東大など頂点とする有名大学や有名校という神話に対抗する価値を、学習に見出さないと難しいのかもしれません。CLILでは、この点をCultureという原理で扱います。学習者が学習者として自律(learner autonomy)することが、CLILの大きな目標です。この点から、CLILは学習者の学習意識を変える力があります。
英語教育あるいは学習の目的を、建前だけではなく、本音でも、しっかりと考えることが大切なような気がします。
二つ目は、日々忙しい毎日が続きますが、「教えることを楽しむ」という気持ちが必要だと思いました。「授業は複雑」と言われます。同じ指導案で授業をしても、一つとして同じ展開になりません。つまり、教師の思い通りにはなりません。学習者も多様だからです。教師がうまくいったと思えたとしても、学習者がどう思っているかはわかりません。逆もそうです。それならば、「教師は楽しむ」と考えるほうが大切です。「楽しむ」というのは楽をするということではなく、「おもしろい」と自分が思うことです。自分のおもしろさを学習者と共有する、あるいは、学習者がおもしろいと思うことを広げる、など。CLILはそのきっかけとすればよいと考えます。その際に危険はことは、教師の興味を学習者に押し付けることです。うまく行けばよいですが、失敗すると悲劇です。
「東洋英和CLIL ReN」という教師の交流会をうまくスタートできてよかったです。今後も細々と続けていきたいと考えています。
CLILだけの研究ではありませんが、東洋英和という学校法人で働く人を中心に、「東洋英和英語教育(CLIL)研究交流会」(Toyo Eiwa English Teaching and CLIL Pedagogy Research Network)(略称「東洋英和CLIL ReN」)という集まりを、5月16日(土)に六本木の大学院校舎で行いました。
私が、私のCLILの理解を話し、集まった人たちで、それぞれの授業のことや、学生や生徒のことを話しました。たいへん楽しい会でした。まとまりのある話しではないので、ここでは、その話しの中で、私が思ったことをここで書いておきたいと思います。
一つは、英語授業の目的です。日本ではどうしても「受験」あるいは「テストでよい成績をとる」ということに注目されてしまいます。これは、日本だけではなく、当然と言えば当然で、おそらく多くの英語学習に要求されていることです。しかし、少し違うのが、英語を実際に使うというニーズに対する意識だと思います。英語をコミュニケーションとして使うという活動が、受験などのテストのスコアとつながらない、という思い込みです。あるいは、効率が悪い、という思い込みです。
別の観点から言うと、語彙や文法などの知識の詰め込みという学習から脱却できないことがあります。単語や熟語をたくさん覚えなければならない、あるいは、英語は効率よく読めなければいけない。そのためには、人とコミュニケーションをして英語を使うことより、個人学習を黙々と続けることのほうが効率がよい。そこで、教師は、授業で説明に終始し多くの言語材料を提供し、そのテストをする。生徒(学生)は、それを覚え、対応する。この悪循環(?)(vicious circle or cycle) からなかなか抜けられません。
そこで、CLILです。CLILと言うか言わないかは、あまり問題ではなく、上記のような学習を多少変えないと未来はないような気がします。CLILの基本は、受験やテストには適していると考えています。つまり、内容と言語の両方に焦点を当てているからです。英語をただ使って無駄にコミュニケーション活動をしているという誤解は解消できるはずです。英語だけ使っていると母語の日本語による思考力が育たないという誤解も解消できるはずです。
現在の学習は、ICTの発達で、知識詰め込みから、思考、創造、リテラシーなど、発想や情報の利用などのほうに移行しています。学校教育もその方向に変わりつつありますが、その評価測定方法が追いつきません。この点は私もよくわかりませんが、東大など頂点とする有名大学や有名校という神話に対抗する価値を、学習に見出さないと難しいのかもしれません。CLILでは、この点をCultureという原理で扱います。学習者が学習者として自律(learner autonomy)することが、CLILの大きな目標です。この点から、CLILは学習者の学習意識を変える力があります。
英語教育あるいは学習の目的を、建前だけではなく、本音でも、しっかりと考えることが大切なような気がします。
二つ目は、日々忙しい毎日が続きますが、「教えることを楽しむ」という気持ちが必要だと思いました。「授業は複雑」と言われます。同じ指導案で授業をしても、一つとして同じ展開になりません。つまり、教師の思い通りにはなりません。学習者も多様だからです。教師がうまくいったと思えたとしても、学習者がどう思っているかはわかりません。逆もそうです。それならば、「教師は楽しむ」と考えるほうが大切です。「楽しむ」というのは楽をするということではなく、「おもしろい」と自分が思うことです。自分のおもしろさを学習者と共有する、あるいは、学習者がおもしろいと思うことを広げる、など。CLILはそのきっかけとすればよいと考えます。その際に危険はことは、教師の興味を学習者に押し付けることです。うまく行けばよいですが、失敗すると悲劇です。
「東洋英和CLIL ReN」という教師の交流会をうまくスタートできてよかったです。今後も細々と続けていきたいと考えています。
2015年4月16日木曜日
4月を迎えて
慌ただしく過ごしており、なかなかブログの更新ができません。
4月から、埼玉医科大学から東洋英和女学院大学へと所属が変わりました。そこでこのブログの名称も変えました。やっていることはあまり変わりません。
3月は、ヨーロッパの小学校のCLILを調査しました。これはまた後で落ち着いたら報告します。
最近は、あらためて世間は広く、知らないことだらけだと特に感じます。「スマホやめますか、それとも信大生やめますか」がちょっと話題になりましたが、多量な情報が手軽に手に入ると同時に、必要な情報の選別や処理が困難になっているのかもしれません。
コミュニケーション能力は教育ではキーワードとなっていますが、CLILももちろんコミュニケーション能力は重視しています。コミュニケーションと言っても、英語教師が考える英語教育におけるコミュニケーション能力と他教科の教師が考えるコミュニケーション能力はかなり違うかもしれません。リテラシー(literacy)もそうでしょう。人の認知は複雑です。年をとればとるほど、考えれば考えるほど、人と人とのコミュニケーションはむずかしいと思うようになっています。
逆に、それがとてもおもしろい、興味深いと感じて、こつこつと研究しています。私の探求のテーマは簡単です。
「この人はどうしてそう考えるのだろうか?」「私はどうしてこう考えるのか?」
CLILを通して英語教育あるいは言語教育を考えると、いままでと違った風景が見えます。たぶん、CLILに興味を持つ人は同じように考えるのではないかと思いますが、微妙にちがいます。
というわけで、4月から職場も変わり、教える学生も変わりました。楽しい季節ですが、また慌ただしい季節です。ブログのタイトルは、私の主な職場の活動の場所ということで、特に意味はありません。
では。
4月から、埼玉医科大学から東洋英和女学院大学へと所属が変わりました。そこでこのブログの名称も変えました。やっていることはあまり変わりません。
3月は、ヨーロッパの小学校のCLILを調査しました。これはまた後で落ち着いたら報告します。
最近は、あらためて世間は広く、知らないことだらけだと特に感じます。「スマホやめますか、それとも信大生やめますか」がちょっと話題になりましたが、多量な情報が手軽に手に入ると同時に、必要な情報の選別や処理が困難になっているのかもしれません。
コミュニケーション能力は教育ではキーワードとなっていますが、CLILももちろんコミュニケーション能力は重視しています。コミュニケーションと言っても、英語教師が考える英語教育におけるコミュニケーション能力と他教科の教師が考えるコミュニケーション能力はかなり違うかもしれません。リテラシー(literacy)もそうでしょう。人の認知は複雑です。年をとればとるほど、考えれば考えるほど、人と人とのコミュニケーションはむずかしいと思うようになっています。
逆に、それがとてもおもしろい、興味深いと感じて、こつこつと研究しています。私の探求のテーマは簡単です。
「この人はどうしてそう考えるのだろうか?」「私はどうしてこう考えるのか?」
CLILを通して英語教育あるいは言語教育を考えると、いままでと違った風景が見えます。たぶん、CLILに興味を持つ人は同じように考えるのではないかと思いますが、微妙にちがいます。
というわけで、4月から職場も変わり、教える学生も変わりました。楽しい季節ですが、また慌ただしい季節です。ブログのタイトルは、私の主な職場の活動の場所ということで、特に意味はありません。
では。
2015年3月13日金曜日
京都KEETの会を終えて
すぐにブログに感想を書こうと思いながら、「あっ」と言う間にこんなに過ぎてしまいました。この投稿を書いているのは、フィンランドのクオピオというところです。ちょっと時間があり、書くことにしました。いつものことですが思いつきで書いていますのでご容赦ください。笹島のメモです。
さて、だいぶ以前になりましたが、2月22日に門田先生や泉先生の計らいで京都の小学校教育関連の方々に話しをする機会を与えられました。CLILのことであれば、時間さえあれば、どこへでも行って話そうと決めているので、朝一番に埼玉から出かけて意見交換をすることができました。たいへん貴重な機会で来てよかったと思いました。
この話しをする発端は上野先生です。「言語教師認知研究会」に上野先生がいつも足を運んでくれて、そこで関西で、言語教師認知の研究を盛り上げたいということでした。それがCLILに変わってしまいましたが、少し言語教師認知の話しもできました。ありがたいことです。
言語教師認知は地味でどちらかと言うと多くの人の興味は引きませんが、CLILは実は言語教師認知とは深くかかわっていると考えています。英国で博士課程の研究を始めた時に、言語教師とCLILの両方に出会いました。私は両方とても面白いと直感しました。いままでの私にはない新しい発想に出会ったような気がしたからです。
京都では、まず会の方々とざっくばらんに意見交換をする会がありました。当然厳しい質問も出ましたが、この厳しい質問こそがこれからのCLILの発展につながるわけですので、充実した会でした。その後、講演をしました。タイトルは、「学びの基礎をつくるCLIL ー英語でともに学びを楽しむために 」としました。内容は、スライドを見てください。ダウンロードできます。CLILをどのように小学校で展開するかということで話させていただきました。私の結論は簡単です。「教師も学びを楽しみましょう!」です。小学校の先生方は、あるいは、中学校、高校、大学、あるいはネイティブスピーカーと言われる人も、英語のすべてを知っている人などいません。もう少し気楽に考えて、ともに英語と英語を通して学べることを学ぶ楽しさを味わうことを考えましょうと提案しました。
私は、このメモを書いているここフィンランドには何度もそのことを考えるために来ています。今回は小学校の先生にターゲットを絞りました。私の考えていることを確認できることも多々ありましたが、もちろん違う部分も多々ありました。フィンランドのことはまた別のときに書くとして、京都での話のことにちょっと触れておきます。
この図がその際に話した「私のCLIL理解」です。CLILの定義はみなさんご存知のとおり、よい意味でもわるい意味でも「あいまい」です。ですが、「あいまい」なままでCLILをすることはできません。私個人の理解はけっこうしっかりとしています。それが上記の図です。しかし、これは状況により変わります。私の中でCLILをする場合は、これでけっこう安定しています。いわゆる4Csの変形です。特に小学校でCLILをする場合は、Intercultural awareness(文化間意識)を大事にすることが大切だと思います。外国語活動でも、教科としての英語でも、英語の構造や機能ばかりを考えたり、コミュニケーションのことばかりを考えたり、思考のことばかり考えても、結局、何かを教えようとする気持ちが強くなるように考えます。Intercultural awareness(文化間意識)は子どもがその学びの中で気づくことです。小学校ではそのような点を大事に考え、学級担任の先生は、英語という活動を考えればよいのではないかと考えています。
そんなことが言いたかったのですがどうもうまくいきません。
次回は、ドイツとフィンランドのことに触れたいと思います。
ーフィンランドにて
さて、だいぶ以前になりましたが、2月22日に門田先生や泉先生の計らいで京都の小学校教育関連の方々に話しをする機会を与えられました。CLILのことであれば、時間さえあれば、どこへでも行って話そうと決めているので、朝一番に埼玉から出かけて意見交換をすることができました。たいへん貴重な機会で来てよかったと思いました。
この話しをする発端は上野先生です。「言語教師認知研究会」に上野先生がいつも足を運んでくれて、そこで関西で、言語教師認知の研究を盛り上げたいということでした。それがCLILに変わってしまいましたが、少し言語教師認知の話しもできました。ありがたいことです。
言語教師認知は地味でどちらかと言うと多くの人の興味は引きませんが、CLILは実は言語教師認知とは深くかかわっていると考えています。英国で博士課程の研究を始めた時に、言語教師とCLILの両方に出会いました。私は両方とても面白いと直感しました。いままでの私にはない新しい発想に出会ったような気がしたからです。
京都では、まず会の方々とざっくばらんに意見交換をする会がありました。当然厳しい質問も出ましたが、この厳しい質問こそがこれからのCLILの発展につながるわけですので、充実した会でした。その後、講演をしました。タイトルは、「学びの基礎をつくるCLIL ー英語でともに学びを楽しむために 」としました。内容は、スライドを見てください。ダウンロードできます。CLILをどのように小学校で展開するかということで話させていただきました。私の結論は簡単です。「教師も学びを楽しみましょう!」です。小学校の先生方は、あるいは、中学校、高校、大学、あるいはネイティブスピーカーと言われる人も、英語のすべてを知っている人などいません。もう少し気楽に考えて、ともに英語と英語を通して学べることを学ぶ楽しさを味わうことを考えましょうと提案しました。
私は、このメモを書いているここフィンランドには何度もそのことを考えるために来ています。今回は小学校の先生にターゲットを絞りました。私の考えていることを確認できることも多々ありましたが、もちろん違う部分も多々ありました。フィンランドのことはまた別のときに書くとして、京都での話のことにちょっと触れておきます。
この図がその際に話した「私のCLIL理解」です。CLILの定義はみなさんご存知のとおり、よい意味でもわるい意味でも「あいまい」です。ですが、「あいまい」なままでCLILをすることはできません。私個人の理解はけっこうしっかりとしています。それが上記の図です。しかし、これは状況により変わります。私の中でCLILをする場合は、これでけっこう安定しています。いわゆる4Csの変形です。特に小学校でCLILをする場合は、Intercultural awareness(文化間意識)を大事にすることが大切だと思います。外国語活動でも、教科としての英語でも、英語の構造や機能ばかりを考えたり、コミュニケーションのことばかりを考えたり、思考のことばかり考えても、結局、何かを教えようとする気持ちが強くなるように考えます。Intercultural awareness(文化間意識)は子どもがその学びの中で気づくことです。小学校ではそのような点を大事に考え、学級担任の先生は、英語という活動を考えればよいのではないかと考えています。
そんなことが言いたかったのですがどうもうまくいきません。
次回は、ドイツとフィンランドのことに触れたいと思います。
ーフィンランドにて
2015年2月21日土曜日
バンコクでのCLIL発表
すみません。すっかりご無沙汰しています。あれやこれやで忙しく、このブログを書く暇がありませんでした。いま、思い出しましたので、ちょっとだけ書いておきます。
先日、タイのバンコクに行きました。10年ぶりくらいだったので、バンコクの変わりようにびっくりしました。英語はそのころから政策的に推進していたので、その調査で行きました。10年経ってどうなのだろうかと知りたかったのですが、ちょっとその暇もありませんでした。しかし、都会の英語教育熱はすごいものがありました。
とりあえず主たる目的は、学会発表でしたので、その点について書いておきます。
1月30日にThai TESOLの大会で発表した。タイトルは下記のとおりです。興味ある方は見てください。
Lesson Study of Content and Language Integrated Learning in Asia
(クリックすればスライドダウンロードできます。)
いくつかのこれまでの発表に重ねて、アジアでのCLILの実施と教員研修の普及の提案です。大きな会場で30人くらいの人が来てくれました。タイでCLILはそれほど知られていないのかと思って行きましたが、発表にもCLILという言葉がいくつかあり、かなり浸透しているという印象を持ちました。
発表の後も、何人かの方から質問を受け、さらには、PhDでCLILを研究しているという人にも会いました。
しかし、最近富に思うのですが、私のCLILの理解が足りないのか、間違っているのか、あるいは、。。。 少し危惧している部分があります。それは、何か「型」を作ろうとしているように思えるのです。強く感じたのが、British Councilの人のCLILのワークショップでした。インストラクターの方ですが、あるマニュアルにそったGeographyの活動を提案していました。いくつかの国の情報を互いにシェアしあうことで、それぞれの国の内容を理解するというような活動です。正直、私はおもしろいと思いませんでした。
ヨーロッパでも多様なCLILの活動があると質問すると、結局、EFLの状況ではこのようなタスクが効果的だと思うとのことでした。インストラクターの人はNSです。これってNSの発想ではないかと思いました。私がヨーロッパなどで見ている様々なCLILとは違うように思いました。
しかし、そうは言っても、全体として、EFLの世界で、そのような指導の形を作ろうとしているように感じます。それは各教師からすれば当然かもしれませんが、私はそうは考えていないので、どうも違和感があります。
タイであらためて「CLIL」を考えました。
私の提案は、CLILを授業研究を通じて考えましょうということです。みなさんでよい学びをつくることのヒントがCLILにあると思っています。
雑文ですみません。
先日、タイのバンコクに行きました。10年ぶりくらいだったので、バンコクの変わりようにびっくりしました。英語はそのころから政策的に推進していたので、その調査で行きました。10年経ってどうなのだろうかと知りたかったのですが、ちょっとその暇もありませんでした。しかし、都会の英語教育熱はすごいものがありました。
とりあえず主たる目的は、学会発表でしたので、その点について書いておきます。
1月30日にThai TESOLの大会で発表した。タイトルは下記のとおりです。興味ある方は見てください。
Lesson Study of Content and Language Integrated Learning in Asia
(クリックすればスライドダウンロードできます。)
いくつかのこれまでの発表に重ねて、アジアでのCLILの実施と教員研修の普及の提案です。大きな会場で30人くらいの人が来てくれました。タイでCLILはそれほど知られていないのかと思って行きましたが、発表にもCLILという言葉がいくつかあり、かなり浸透しているという印象を持ちました。
発表の後も、何人かの方から質問を受け、さらには、PhDでCLILを研究しているという人にも会いました。
しかし、最近富に思うのですが、私のCLILの理解が足りないのか、間違っているのか、あるいは、。。。 少し危惧している部分があります。それは、何か「型」を作ろうとしているように思えるのです。強く感じたのが、British Councilの人のCLILのワークショップでした。インストラクターの方ですが、あるマニュアルにそったGeographyの活動を提案していました。いくつかの国の情報を互いにシェアしあうことで、それぞれの国の内容を理解するというような活動です。正直、私はおもしろいと思いませんでした。
ヨーロッパでも多様なCLILの活動があると質問すると、結局、EFLの状況ではこのようなタスクが効果的だと思うとのことでした。インストラクターの人はNSです。これってNSの発想ではないかと思いました。私がヨーロッパなどで見ている様々なCLILとは違うように思いました。
しかし、そうは言っても、全体として、EFLの世界で、そのような指導の形を作ろうとしているように感じます。それは各教師からすれば当然かもしれませんが、私はそうは考えていないので、どうも違和感があります。
タイであらためて「CLIL」を考えました。
私の提案は、CLILを授業研究を通じて考えましょうということです。みなさんでよい学びをつくることのヒントがCLILにあると思っています。
雑文ですみません。
トルコの参加者の方と |
大会の際の歓迎の踊り |
CLILの教科書 |
![]() |
バンコクの街にうろつく犬 |
2014年12月4日木曜日
ICUでのFDセミナー
国際キリスト教大学(ICU)でのFDセミナー
CLILの背景や実践を話しました。私のCLIL実践がICUにどの程度役に立つのか分かりませんが、楽しく話させていただきました。今回の話は、CLILの基本的な理論と背景、それから、私自身の実践などです。
ICUということでNative speakerの先生が多く、それなりに自分の指導理論をすでに確立していると思います。私の話でCLILに傾倒するというようなことはないと思いますが、それなりに聞いてくれたようです。CEFRやCLILはヨーロッパのものですから、「なぜヨーロッパのものを日本に取り入れるのか?」という素朴な質問もありました。たしかにそうです。日本人はこれまでもそうですが、どうしても欧米かぶれのような部分は脱しきれないところがあります。私は決して欧米かぶれではありませんが、言われてみるとそうだと思いました。でも、CEFRやCLILは日本では有効だと思ったのが先です。
この機会に、私自身が、どうしてCEFRやCLILについて興味を持ち、日本への導入にかかわり始めたのかを少し振り返ってみました。
CEFRとCLILは密接に関係しています。CLILはCEFRがなければ、CBIやbilingual educationなどとほぼ同じアプローチとなります。CLILということも意味がないかもしれません。私は、CEFRの調査からCLILを知りました。ひょっとすると、そう考えてしまうのは、そのような出会いの経緯でそう思い込んでいるのかもしれません。が、CLILを実践することは、ヨーロッパのCLILをすることではなく、日本のCLILをすることです。これは、Do Coyleも言っていることですが、やはり、状況(context)が大切であり、柔軟であることです。
CEFRも同様です。外国語の到達度を明確にして、学習者が言語学習を自律的に進めることを支援するという発想は、とてもよい考え方です。CEFRも現在はCEFR-JやJapan StandardsなどとしてRLD(Reference Level Descriptions)化が始まっています。ヨーロッパから広がりを見せていて、Europeはすでに外れつつあるかもしれません。良いものは良いとして受け入れるという姿勢は、ただ欧米に追随することではないように思いますが、ここは冷静に考えていく必要がありそうです。
私の話はつたないものですが、CLILの話ができることはうれしいことです。この会を主催していただいた岩田先生、宮原先生、渡辺先生には感謝したいと思います。ICUが実践している英語(外国語)教育は、ほぼCLIL的だと思います。CLILというかどうかは、あまり問題ではなく、よい教育を提供すればよいと考えますので、当然、ICUは質の高い教育をしているわけで、そこで意見交換ができたことはありがたいことでした。
終わったあとのお茶の会で、お手伝いをしてくれた学生さんと話をして楽しかったです。若い人でも、考えている人はしっかり考えているなあとあらためて思いました。こういう若い人が、現状の日本の言語教育を少しずつ変えていく必要があります。応援したいですね。ぜひ、CLILに興味をもっていただきたいと思います。
その話の中でも出たことですが、英語と日本語の両方を授業で使うことです。つまりバイリンガルということですが、これに関してはいろいろな考え方があるんだと思いました。私は、その人が納得していればそれでよいと思います。英語だけを使って英語を指導する、ということも、うまくいけばそれでよいと思います。が、私は、自然にやりとりの中で必要だったら、日本語を交えてもよいと考えています。でも、英語を使う雰囲気は作らないといけないので、日本語ばかり使っているとやりにくいでしょうね。
このような「ことばの交差(translanguaging)」のことを、多くの人が取り上げているようです。従来のようなマイナスイメージではなく、プラスのイメージで考える方向性を示しています。CLILではこの「ことばの交差」を肯定的に考えていますが、そうではないと人ももちろんいます。意見が分かれることですが、私は、プラスに考えます。最近、この「ことばの交差」のことに興味を持っています。
いつも思いますが、このようにお話しの依頼を受けると、一番勉強になるのは自分だと思っています。ありがとうございます。これは、私の省察が少し高次になっているのかもしれません。そうなっていればうれしい。独りよがりにならずに、柔軟に考える。これがCLILの核心だと思います。また、それば私の言語教師認知の研究にもつながります。それは私自身の「教師のこころ」を見つめる機会です。これを探求したい。
いつものことですが、まとまりのないメモです。これは笹島のつぶやきです。誤字脱字、思い違いなどご容赦ください。
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