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CLIL SAITAMA(旧名称)

Current Practices and Future Perspectives of Content and Language Integrated Learning (CLIL) in Japan

CLILは、次第に注目を集めています。本サイトは、笹島茂がかかわるCLILの実践やつぶやきを集めたものです。参考にしてください。

CLILアンケート調査


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2015年8月15日土曜日

JACET関東支部大会シンポジウム


7月12日(日)にJACET関東支部大会が青山学院大学で行われました。その際に、次のタイトルで、森住衛先生と塩澤正先生と私でシンポジウムを行いました。

統合型英語教育における異文化間多様性
Intercultural Diversity of Integrated Learning in English Education 

森住先生の大きく深い視点は、「文化」ということをそう簡単には論じられないことを指摘しました。また、塩澤先生も、同様な視点から、より実践的に「文化」を論じてくれました。私は、軽く「文化」を取り上げました。「異文化間多様性」はintercultural diversityという英語を直訳した日本語で、少し判りにくいかもしれません。私は次のように理解してシンポジウムに参加しました。

intercultural diversity   文化と文化が相互に接触することにおいて起こる多様性

「異文化」という語は、「異なる文化」という意味ですが、私の個人的な感覚で、どうしても、異人、異邦人など、「ふつうとは違う」「自分とは違う」というようなニュアンスがあると感じてしまうので、あまり使いたくないので、ここでは、

intercultural diversity =  文化間多様性

として考えます。

文化は日本でも多様になってきていることはまちがいありません。その意味から実践的な文化ということについて、CLILという統合的な学習において、私は考えました。

その際に、私は、「CLILにおける統合の意味と文化の扱い」ということを話しました。スライドはここをクリックしてください。そこで、「統合(integrated)」の意味について次の点に触れました。

• 学習者は多様な文化に直面している
• 英語学習は英語学習だけではおさまらない
• 学びの場面は複雑だ
• 多くの学習者にとって英語は道具にすぎない
• 言語も文化も学ぶ対象だ
• 学ぶことや教えることを楽しむ
• 統合の中に何かが生まれる

CLILはごちゃごちゃしている感じが好きです。その意味で、統合をとても大切にしているし、統合がなければCLILとは言えないでしょう。その点から、英語学習であれば、英語を学び使うということは、学習者にとっては単に道具でしかないと考えます。しかし、これが意味を持ち、文化も深く考えるためには、言語自体が文化になり、単なる道具ではなくなり、学習や思考には欠かせないものです。

CLILは、その点で、かなりの部分を学習者に委ねる教育です。教師が主体ではなく、あくまで学習者が主体となり、多様な学びを提供します。そこで、次のように、CLILの面白みを提案しました。

• 定型のない指導 ⇨ 開発
• 学習者が中心 ⇨ 教師と学習者の協同
• 個々の学習者の学習過程の複雑さを大切
• 複雑な学びの中で、学習者自身が思考し発見する状況を「見取る」
• CLILは一つのComplex Adaptive Systems
• 何が起こるか分からないが、系統的

この中で、強調したい点は、CLILは一つのComplex Adaptive Systems(CAS)(複雑性適応系)と考えると分かりやすいということです。授業自体がCASと考えられるのですが、CLILはまさにCASです。CASは複雑に展開しますが、自然となんらかの方向性に向かい落ち着きます。いままでの日本の英語教育はなんらかのCASを形成しています。CLILはこのような英語授業をいままでとは少し形を変えたCASを発現する可能性があると考えています。その点にCLILの面白みがあるのです。

これには、文化間意識(intercultural awareness)は重要です。シンポジウムではその点を述べたかったですが、なかなかむずかしいですね。


2015年8月14日金曜日

JACET北海道支部での講演

あっという間に、時が過ぎました。ブログに書こう、書こうと思いながら。。。遅くなりましたが、報告します。

7月4日(土)に北海道ニセコにおいて行われたJACET北海道支部総会で話をしました。「CLIL/CBLTが育む 英語教師のこころの変化」と題した話です。その他、シンポジウム「言語教師認知研究と英語教育」を、河合靖先生、志村昭暢先生、中村香恵子先生と行いました。シンポジウムは、本ブログとは話題が違うので割愛しますが、充実した1日でした。

ニセコは、初めて訪れたところですが、噂で聞いていたとおり、オーストラリアや中国の人たちが多く住むようになり、地方からおもしろい形であちらこちらとつながるようになっていると感じました。グローバル化とか国際化とか言われて騒いでいますが、これってごくふつうのことのような気がしました。ただ少し危惧するのは、地元の人がどう対応しているのかという点でした。おそらくなんらかの軋轢があるはずですが、印象としてはたいへんポジティブで、うまくいってほしいと思います。

さて、私の講演ですが、「CLIL/CBLTが育む 英語教師のこころの変化」と題したとおり、タイトルにCLILに加えてCBLT (Content-based Language Teaching)ということばを入れて、英語教師のこころについて話しをしてみました。少し焦点がぼやけて、ピントがずれたかもしれません。期待されていた話は、CLILのもっと具体的な部分のようでした。

そこで、二つの相反する方向性に気づきました。

1)CLILに興味を持つ人が多くなり、今後の発展の可能性
2)CLILは結局ヨーロッパの教育で、日本での実施は無理

どちらに向かうのかは、教師の考え次第です。

私は、そのように考える教える側に興味があり、その教える側の立場からCLILに興味を持ちました。というのは、私自身の教え方も実際CLIL的な要素がある授業を展開していたので、自然にCLILに近づいたので、あまり違和感がありませんでした。しかし、それとともに、言語教師の教えることや学ぶことに対する考え方(教師認知:teacher cognition)を研究しているうちに、日本の中高で教える英語教師の認知(「こころ」と呼んでいます)が、長い年月の間に構築されたある集合的な方向性を持っていることに気づきました。それを変える可能性があるのが、CLILという教育理念だと考えたのです。

日本の英語教育の問題は、何も日本の英語教師だけにはかぎりません。私の話は、ネイティブ・スピーカーがCLILに取り組むことにより、その「こころ」がどう変化したかに多少触れました。ちょっとそのあたりがうまく話せませんでしたが、ネイティブ・スピーカーとのティームテイーチングによりかなり変化しました。効果はあったと考えています。

北海道でもCLILがかなり興味を持たれているようで、同時期にいくつか同じ話があちらこちらであったようです。CLIL についても理解が進んでいるのでしょう。多様なCLILがあり、また、CLIL自体がそれほど特別なものではないと受け止める人が出てきています。「これまで展開されてきた内容やテーマを重視した英語授業と何が違うのか?」という素朴な疑問があるようです。これは、言い換えれば、多くの人がCLIL的な内容を実践されているということでもあります。うれしいことです。ぜひ、よいかたちで進んでほしいと思います。

北海道支部の取り組みがhospitalityというテーマを中心に展開しているそうです。そのためにニセコを選んで大会を行ったと聞きました。hospitalityというのは状況により、また、文化によりかなり異なります。相手がどう感ずるか、どう考えるか、そのために自分はどう行動するのか、などなど。この視点は、CLILの4つの原理の一つであるcultureと共通します。

CLILがヨーロッパとは異なるかたちで北海道の言語教育に定着してくれたらうれしいです。

発表スライドは、ここをクリックしてください。



2015年6月29日月曜日

CIEE新潟同友会にて

6月27日(土)は、CIEE新潟同友会総会に招かれ、長岡でCLILの話をしました。新潟では、長い歴史のある英語研究会であり、新潟県の英語教育を中心的に担っている人の会です。このような会での話はたいへん光栄で、かつ、参会者の方を実りある意見交換をしました。

私が話す前に、研究発表として二人の先生が話してくれました。中高一貫校の6年の指導と、インタビュー活動におけるルーブリックの活用という高校での実践の話でした。両方とも、単なる研究発表ではなく、本音も聞けた興味深い話でした。お互いが気心のしれた集まりということもあったのでしょう。率直な研究と指導を現場の実践が聞けたことは、私の研究の興味にぴったりでした。可能であれば一度学校を訪問させていただきたいと思いました。

会長の廣田先生と事務局の森先生の人柄だと思いますが、暖かい雰囲気で実に心地よく話すことができました。この会に呼ばれたのは、顧問をされている阿部先生(さん)の誘いでした。阿部先生は、大学時代の先輩で、もともとは物理学を学び、新潟では理科の先生をして、英語に転じた実に多才な人です。何でもできる先輩で行動力のある人です。廣田先生も森先生も、その阿部先生を通じて、今回知り合いました。

CLILについては、その場にいた先生にはまだ未知の「学び」のようでしたが、意外にスーッと理解してもらったのではないかと勝手に思っています。演題は「CLILがつなぐコミュニケーションの輪」としました。いままであちらこちらで話した内容をいくつか合わせて話しました。目的は、CLILに興味を持ってもらいたかったからです。使ったスライドはこのページからダウンロードできるようにしておきます。興味のある方は見てください。

当日はちょっとうまく説明ができませんでしたが、「CLILがつなぐコミュニケーションの輪」の意味は、下の図です。CLILでは、cultureを大切にしています。私は、CLILが日本に定着するかどうかは、図に示したIntercultural awareness(文化的な気づき)の理解のしかたにあると考えています。多様な学びが、これまでの伝統的な学びをうまくつなぐカギのヒントがCLILにあるのではないかと思うわけです。

このあたりは、私もうまく説明できないし、その実践も積み重ねているわけではないので、明確に言えませんでした。発表の冒頭で、3年前に参加したオランダ・ユトレヒトで行われた ヨーロッパのCLILの学会で偶然出会った世界で最も小規模な世界遺産、the Rietveld Schröder Houseは、私に「CLILとは何か」を教えてくれたような気がします。

CLILはそれほど奇抜な教育ではありませんが、やはりいままでの英語教育とは違います。また、それぞれの科目の教育とも違います。特に型はありません。一見すると何も起こっていないようにも見えますが、よく見ると「え?」と思うことがあります。それが、the Rietveld Schröder Houseによく似ているように思うのです。

この家は、100年近く前に作られた家です。当時は斬新なもので、いまでもある面では斬新なものです。しかし、一見するとごく普通の家です。CLILとはそのような感じの教育です。それが世界遺産として後世にも残す必要があると判断された発想が、私は重要だと思っています。

しかし、この機会に多くの先生方に興味を持っていただき、いずれにしても感謝しています。森先生からも多くの示唆を受けました。また、参会者の先生方からも多くのヒントを得られました。一つ印象に残ったのは、廣田先生の、「CLILは中学校の実践の中でもけっこうやっていることですね」という感想です。私も実はそう感じています。中学校の先生はかなり工夫をして授業をしています。そのような授業をかなり見ました。また、高校でもそうです。CLIL的な要素はけっこう日々の実践の中でも多くの教師がやっていることなのです。杉田先生が、2年後に全国英語教育学会が新潟で開かれると教えてくれました。ぜひCLILを取り上げてください。CLIL NIIGATA をぜひお願いします。

私は、ヨーロッパのCLILを日本に取り入れようとは考えていません。CLILという教育を通して、英語の学びあるいは英語による学びを少し別の角度から考えてみませんか?ということです。関心を持ってもらえれば幸いです。

懇親会まで開いていただき、まことに感謝です。阿部さん、よい出会いをありがとうございました。またの機会を楽しみにしています。写真を撮るのを忘れてしまい、画像がなく申し訳ありません。では、また。


2015年6月15日月曜日

東洋英和CLIL ReN第2回会合

東洋英和CLIL ReNの集まりの第2回が6月13日にありました。

武藤克彦先生の「イングリッシュキャンプにおける参加児童のCan-Do評価」という話をもとに、いろいろと意見交換しました。参加者は、大学関係者が多かったのですが、小学校や小学校英語教育にも詳しい人が多かったので、活発なやりとりが行われました。

私自身も小学校の英語活動や子供の英語力や英語コミュニケーション能力や国際理解を育成する活動には興味があり、武藤先生の話はとても興味深い内容でした。

ある団体が主催するイングリッシュキャンプで国際理解教育をもとに、学生を中心とするリーダーととともに英語で様々な活動をするという内容です。英語学習を主たる目的とするのではなく、「何かをしながら人と関わりながら学ぶ」という社会文化理論を背景とする視点で、武藤先生は子どもを見ているようです。Can-Do評価を利用しながら、子どもがイングリッシュキャンプで何をどう学ぶのかということを探索することが目的です。

現在の研究は、この段階からさらに進化し、多様な分析を試みているようです。研究成果が楽しみです。このイングリッシュキャンプ自体はCLILではありませんが、話し合いの中で、やはりCLILの話になりました。リーダー(チューター)はすべて学生で、英語を母語とする訳ではありません。英語はそこでは共通語で、それぞれの学生の出身国のことを話題として学びます。多様な内容や文化を子どもは知ります。もちろんその中で英語に触れるわけです。イマージョンということです。

このような活動は、CLILとして見ることが可能です。しかし、CLILは宗教でもある特定の指導法ではないので、この活動をCLILと言うか言わないかはあまり問題ではないと思います。率直な感想として、子どもは面白いと感じたのではないでしょうか?相当に様々なことを考え、学び、コミュニケーションし、文化的体験をしたはずです。これはCLILの「4つのC」にも合致します。その意味で、CLILと呼べば呼べるでしょう。

私は、何がCLILか、何がCLILでないかにはあまり興味がありません。率直に何か「学び」が起きている、あるいは、それが言語学習とかかわっている、ということに興味があります。それをCBI、CBLT、イマーション、バイリンガルなどと呼ばれ、区別されるわけですが、それはまた別の話と考えます。

人の興味は様々で、多様な「学び感」があります。年齢や経験を積み重ねれば積み重ねるほど、人は自分に自信を持ちます。確固としたビリーフを持ちます。教師であれば一つの指導法がかたまってきます。生徒であれば、学習スタイルが決まります。これはその人のアイデンティティーであり、変わる必要もありませんし、そう簡単に変わらないものです。

その意味で、武藤先生の紹介したイングリッシュキャンプはおもしろい題材でした。ある方向性は決まっているのですが、実際に参加した子どもが何を一番学んだかはおそらくわからないでしょう。しかし、たぶん子ども一人ひとりには大きな学びを与えたはずです。これを検証することはきっと意味があることです。その意味で興味があります。

CLIL的には、それぞれの子どもが主体的に何かできることが大切なのかな、と思いました。つまり、言語を英語ということに規制することに対して、主催者がどう考えているかです。英語という言語に限定することにより、不自然になります。内容を自然と単純化します。これは自然ですが、それと併せて、母語を使ってはいけないとするとちょっと意味合いが変わります。あるいは、多言語状況を演出することもそうです。さらには、文化をどう扱うかです。

このような英語イマーションプログラムはあちらこちらで行われ、成果を出しています。きっと子どもにはよいことでしょう。これをCLILと呼ぶか呼ばないかはそれほど大きな問題ではありませんが、教師がそれをどう考えているかは一つ一つの活動に影響を与えるでしょう。私はその点にとても興味を感じます。

武藤先生ありがとうございました。このブログは私の記録としてのメモです。思い違いや文章の不備はご容赦ください。

第3回は、7月18日(土)3時〜5時です。仲谷先生、油木田先生、大和先生が話題提供してくれます。


2015年5月17日日曜日

東洋英和CLIL ReNの発足について

東洋英和女学院大学に赴任して2月弱たちました。

CLILだけの研究ではありませんが、東洋英和という学校法人で働く人を中心に、「東洋英和英語教育(CLIL)研究交流会」(Toyo Eiwa English Teaching and CLIL Pedagogy Research Network)(略称「東洋英和CLIL ReN」)という集まりを、5月16日(土)に六本木の大学院校舎で行いました。

私が、私のCLILの理解を話し、集まった人たちで、それぞれの授業のことや、学生や生徒のことを話しました。たいへん楽しい会でした。まとまりのある話しではないので、ここでは、その話しの中で、私が思ったことをここで書いておきたいと思います。

一つは、英語授業の目的です。日本ではどうしても「受験」あるいは「テストでよい成績をとる」ということに注目されてしまいます。これは、日本だけではなく、当然と言えば当然で、おそらく多くの英語学習に要求されていることです。しかし、少し違うのが、英語を実際に使うというニーズに対する意識だと思います。英語をコミュニケーションとして使うという活動が、受験などのテストのスコアとつながらない、という思い込みです。あるいは、効率が悪い、という思い込みです。

別の観点から言うと、語彙や文法などの知識の詰め込みという学習から脱却できないことがあります。単語や熟語をたくさん覚えなければならない、あるいは、英語は効率よく読めなければいけない。そのためには、人とコミュニケーションをして英語を使うことより、個人学習を黙々と続けることのほうが効率がよい。そこで、教師は、授業で説明に終始し多くの言語材料を提供し、そのテストをする。生徒(学生)は、それを覚え、対応する。この悪循環(?)(vicious circle or cycle) からなかなか抜けられません。

そこで、CLILです。CLILと言うか言わないかは、あまり問題ではなく、上記のような学習を多少変えないと未来はないような気がします。CLILの基本は、受験やテストには適していると考えています。つまり、内容と言語の両方に焦点を当てているからです。英語をただ使って無駄にコミュニケーション活動をしているという誤解は解消できるはずです。英語だけ使っていると母語の日本語による思考力が育たないという誤解も解消できるはずです。

現在の学習は、ICTの発達で、知識詰め込みから、思考、創造、リテラシーなど、発想や情報の利用などのほうに移行しています。学校教育もその方向に変わりつつありますが、その評価測定方法が追いつきません。この点は私もよくわかりませんが、東大など頂点とする有名大学や有名校という神話に対抗する価値を、学習に見出さないと難しいのかもしれません。CLILでは、この点をCultureという原理で扱います。学習者が学習者として自律(learner autonomy)することが、CLILの大きな目標です。この点から、CLILは学習者の学習意識を変える力があります。

英語教育あるいは学習の目的を、建前だけではなく、本音でも、しっかりと考えることが大切なような気がします。

二つ目は、日々忙しい毎日が続きますが、「教えることを楽しむ」という気持ちが必要だと思いました。「授業は複雑」と言われます。同じ指導案で授業をしても、一つとして同じ展開になりません。つまり、教師の思い通りにはなりません。学習者も多様だからです。教師がうまくいったと思えたとしても、学習者がどう思っているかはわかりません。逆もそうです。それならば、「教師は楽しむ」と考えるほうが大切です。「楽しむ」というのは楽をするということではなく、「おもしろい」と自分が思うことです。自分のおもしろさを学習者と共有する、あるいは、学習者がおもしろいと思うことを広げる、など。CLILはそのきっかけとすればよいと考えます。その際に危険はことは、教師の興味を学習者に押し付けることです。うまく行けばよいですが、失敗すると悲劇です。

「東洋英和CLIL ReN」という教師の交流会をうまくスタートできてよかったです。今後も細々と続けていきたいと考えています。






2015年4月16日木曜日

4月を迎えて

慌ただしく過ごしており、なかなかブログの更新ができません。

4月から、埼玉医科大学から東洋英和女学院大学へと所属が変わりました。そこでこのブログの名称も変えました。やっていることはあまり変わりません。

3月は、ヨーロッパの小学校のCLILを調査しました。これはまた後で落ち着いたら報告します。

最近は、あらためて世間は広く、知らないことだらけだと特に感じます。「スマホやめますか、それとも信大生やめますか」がちょっと話題になりましたが、多量な情報が手軽に手に入ると同時に、必要な情報の選別や処理が困難になっているのかもしれません。

コミュニケーション能力は教育ではキーワードとなっていますが、CLILももちろんコミュニケーション能力は重視しています。コミュニケーションと言っても、英語教師が考える英語教育におけるコミュニケーション能力と他教科の教師が考えるコミュニケーション能力はかなり違うかもしれません。リテラシー(literacy)もそうでしょう。人の認知は複雑です。年をとればとるほど、考えれば考えるほど、人と人とのコミュニケーションはむずかしいと思うようになっています。

逆に、それがとてもおもしろい、興味深いと感じて、こつこつと研究しています。私の探求のテーマは簡単です。

「この人はどうしてそう考えるのだろうか?」「私はどうしてこう考えるのか?」

CLILを通して英語教育あるいは言語教育を考えると、いままでと違った風景が見えます。たぶん、CLILに興味を持つ人は同じように考えるのではないかと思いますが、微妙にちがいます。

というわけで、4月から職場も変わり、教える学生も変わりました。楽しい季節ですが、また慌ただしい季節です。ブログのタイトルは、私の主な職場の活動の場所ということで、特に意味はありません。

では。

2015年3月13日金曜日

京都KEETの会を終えて

すぐにブログに感想を書こうと思いながら、「あっ」と言う間にこんなに過ぎてしまいました。この投稿を書いているのは、フィンランドのクオピオというところです。ちょっと時間があり、書くことにしました。いつものことですが思いつきで書いていますのでご容赦ください。笹島のメモです。

さて、だいぶ以前になりましたが、2月22日に門田先生や泉先生の計らいで京都の小学校教育関連の方々に話しをする機会を与えられました。CLILのことであれば、時間さえあれば、どこへでも行って話そうと決めているので、朝一番に埼玉から出かけて意見交換をすることができました。たいへん貴重な機会で来てよかったと思いました。

この話しをする発端は上野先生です。「言語教師認知研究会」に上野先生がいつも足を運んでくれて、そこで関西で、言語教師認知の研究を盛り上げたいということでした。それがCLILに変わってしまいましたが、少し言語教師認知の話しもできました。ありがたいことです。

言語教師認知は地味でどちらかと言うと多くの人の興味は引きませんが、CLILは実は言語教師認知とは深くかかわっていると考えています。英国で博士課程の研究を始めた時に、言語教師とCLILの両方に出会いました。私は両方とても面白いと直感しました。いままでの私にはない新しい発想に出会ったような気がしたからです。

京都では、まず会の方々とざっくばらんに意見交換をする会がありました。当然厳しい質問も出ましたが、この厳しい質問こそがこれからのCLILの発展につながるわけですので、充実した会でした。その後、講演をしました。タイトルは、「学びの基礎をつくるCLIL ー英語でともに学びを楽しむために 」としました。内容は、スライドを見てください。ダウンロードできます。CLILをどのように小学校で展開するかということで話させていただきました。私の結論は簡単です。「教師も学びを楽しみましょう!」です。小学校の先生方は、あるいは、中学校、高校、大学、あるいはネイティブスピーカーと言われる人も、英語のすべてを知っている人などいません。もう少し気楽に考えて、ともに英語と英語を通して学べることを学ぶ楽しさを味わうことを考えましょうと提案しました。

私は、このメモを書いているここフィンランドには何度もそのことを考えるために来ています。今回は小学校の先生にターゲットを絞りました。私の考えていることを確認できることも多々ありましたが、もちろん違う部分も多々ありました。フィンランドのことはまた別のときに書くとして、京都での話のことにちょっと触れておきます。


この図がその際に話した「私のCLIL理解」です。CLILの定義はみなさんご存知のとおり、よい意味でもわるい意味でも「あいまい」です。ですが、「あいまい」なままでCLILをすることはできません。私個人の理解はけっこうしっかりとしています。それが上記の図です。しかし、これは状況により変わります。私の中でCLILをする場合は、これでけっこう安定しています。いわゆる4Csの変形です。特に小学校でCLILをする場合は、Intercultural awareness(文化間意識)を大事にすることが大切だと思います。外国語活動でも、教科としての英語でも、英語の構造や機能ばかりを考えたり、コミュニケーションのことばかりを考えたり、思考のことばかり考えても、結局、何かを教えようとする気持ちが強くなるように考えます。Intercultural awareness(文化間意識)は子どもがその学びの中で気づくことです。小学校ではそのような点を大事に考え、学級担任の先生は、英語という活動を考えればよいのではないかと考えています。

そんなことが言いたかったのですがどうもうまくいきません。

次回は、ドイツとフィンランドのことに触れたいと思います。

ーフィンランドにて


2015年2月21日土曜日

バンコクでのCLIL発表

すみません。すっかりご無沙汰しています。あれやこれやで忙しく、このブログを書く暇がありませんでした。いま、思い出しましたので、ちょっとだけ書いておきます。

先日、タイのバンコクに行きました。10年ぶりくらいだったので、バンコクの変わりようにびっくりしました。英語はそのころから政策的に推進していたので、その調査で行きました。10年経ってどうなのだろうかと知りたかったのですが、ちょっとその暇もありませんでした。しかし、都会の英語教育熱はすごいものがありました。

とりあえず主たる目的は、学会発表でしたので、その点について書いておきます。

1月30日にThai TESOLの大会で発表した。タイトルは下記のとおりです。興味ある方は見てください。

Lesson Study of Content and Language Integrated Learning in Asia
(クリックすればスライドダウンロードできます。)

いくつかのこれまでの発表に重ねて、アジアでのCLILの実施と教員研修の普及の提案です。大きな会場で30人くらいの人が来てくれました。タイでCLILはそれほど知られていないのかと思って行きましたが、発表にもCLILという言葉がいくつかあり、かなり浸透しているという印象を持ちました。

発表の後も、何人かの方から質問を受け、さらには、PhDでCLILを研究しているという人にも会いました。

しかし、最近富に思うのですが、私のCLILの理解が足りないのか、間違っているのか、あるいは、。。。 少し危惧している部分があります。それは、何か「型」を作ろうとしているように思えるのです。強く感じたのが、British Councilの人のCLILのワークショップでした。インストラクターの方ですが、あるマニュアルにそったGeographyの活動を提案していました。いくつかの国の情報を互いにシェアしあうことで、それぞれの国の内容を理解するというような活動です。正直、私はおもしろいと思いませんでした。

ヨーロッパでも多様なCLILの活動があると質問すると、結局、EFLの状況ではこのようなタスクが効果的だと思うとのことでした。インストラクターの人はNSです。これってNSの発想ではないかと思いました。私がヨーロッパなどで見ている様々なCLILとは違うように思いました。

しかし、そうは言っても、全体として、EFLの世界で、そのような指導の形を作ろうとしているように感じます。それは各教師からすれば当然かもしれませんが、私はそうは考えていないので、どうも違和感があります。

タイであらためて「CLIL」を考えました。

私の提案は、CLILを授業研究を通じて考えましょうということです。みなさんでよい学びをつくることのヒントがCLILにあると思っています。

雑文ですみません。
トルコの参加者の方と

大会の際の歓迎の踊り

CLILの教科書

バンコクの街にうろつく犬